渡辺謙『許されざる者』ティーチイン全内容掲載
去る9月12日(木)、都内のワーナー・ブラザース試写室にて、『許されざる者』の女性限定試写会が行われ、上映後、主演の渡辺謙と、小池栄子、李相日監督によるティーチイン(Q&A)が行われた。
渡辺謙は熱心に作品についての持論を語り、25分の予定だったティーチインは、夜遅くまで延長して1時間に及んだ。それでも渡辺はまだまだ喋り足りないという様子だった。
『許されざる者』は、21年前にクリント・イーストウッドが監督した同名の名作西部劇を、李監督が明治維新後の北海道開拓時代に置き換えてリメイクした時代劇映画である。日本映画では珍しくアイヌについての描写がある。ワーナー日本法人と、クリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』に主演した渡辺謙の信頼関係があって、イーストウッドもリメイクを快く許可。完成した作品を見てイーストウッド自身も賛辞の言葉をワーナー日本法人に寄せた。その完成度は、『悪人』を撮った李ならではのクオリティで、日本映画の感性を超越した何かがそこにあった。具体的な言葉では表現できない抽象的な何かの力に圧倒されるような作品だ。ティーチインではその辺の見どころについてもかなり深いところまで掘り下げて語られた。
このティーチインは、よくある舞台挨拶の中でも類を見ない、大変有意義な時間といえるものだったので、これを簡単なニュース記事で済ませてしまうのはもったいないと考え、シネマガでは、ティーチインの内容のすべてを以下に完全収録することにした。
渡辺「映画の上映後に客席の前にいるのはベネチア以来2回目なんですけど、ベネチアでは皆さんが拍手するのを受け取るだけだったんですけど、こうやってお話をするというのは、こういう役では難しいというか、大変というか。今せっかく何かを受け止めていただいている中でそれを壊さないようにするのはどうしたらいいのかと、それを悩みながら今ここにいます」
小池「女性だけというのは迫力がありますね。私も皆様が見終わったばかりで、余韻があって心にすごくしみいるものがあると思いますので、どんな話をしたらいいのかとなかなかまだ考えてないんですけど、でも素直に今見終わった感想を聞かせていただけたら、こちらとしてもこんなぜいたくな機会はないと思います。ぜひ感想を聞かせてください」
監督「ようこそお越しいただきました。映画監督にとって、上映後のお客様の前にいるのは一番の拷問です。でもなんとか最後まで座っていたいと思います。ベネチアから戻ってちょっと疲れがたまっていたのか、腰を悪くしまして、途中で変な動きをするかもしれませんが、気になさらないでください。よろしくお願いします」
司会「監督がこの時代にこんなに魂の揺さぶられる作品を作ろうとお思いになって、そしてキャストの方スタッフの方がそれを形にしようと集まられたこと自体に涙が出そうになったんですけど、この映画をどのような思いで作られ、演じられたのか最初に聞きたいと思いました」
監督「前回『悪人』という映画を撮りまして、また次のチャレンジをしたいなと、どうしても1本終わると、別のエネルギーを向けるときに、映画って疲れるんで、何が全力のエネルギーを注ぎ込めるかというときに、北海道の開拓の話をアイヌのことを含めてやりたいなと思っていた題材だったので。もうすぐ年があけたら40になるんですけど、少しずついろんな違和感というかな、ちょっとこれおかしいなというか、やっぱりまだ世界ではこんなことがあるなというか、普段の生活の中では流れて行くんですけど、そういうのを少しずつ拾い集めると、時代劇で今作るものって、三船敏郎さんがかっこよくズバズバたくさん切る映画じゃないなというのがスタートにあって、自分の実感として正義という言葉とか、人が人を傷つけることが終わらないとか、そんなの答えはないんですけど、映画を作ることで、そういうことを見て行きたいというのがあるんですね。そのときに頭によぎったのがクリント・イーストウッドの『許されざる者』で、あの映画の中にすべてその要素がいっぱい詰まっていて、20年経った今見ても古びてないし、古びるどころか、今自分が感じていることがあそこにあるんですよね。で、まあそんなこんなで、これを北海道という舞台で作ることが、何か自分が感じている溜まって来た違和感と向き合うことになるんじゃないかということで始めたことです。そのことにいち早く渡辺謙さんが反応して向き合っていただいたということで、これがスタートしたのです」
渡辺「その前にちょっとお聞きしたいんですけど、映画の途中で"私ダメ、もう見てられない"と思った方います?(客席の半数が手を挙げる)いるよねえ。でも"ちょっと私のタイプじゃないけど、まあ見てよかったな"という方っていらっしゃいますか?(客席の半数が手を挙げる)嬉しいです。そんなような映画なんですよ、なかなか。映画をやってお客様に届けるときに見どころはとか、どういうところを見て欲しいとか聞かれることが多いんですけど、なんかね、言葉じゃないんですよね。何かこう目の奥に写っているものだったりとか、女たちの佇まいだったり、男たちの見方だったりとか立ち方だったり表情だったりとか、そんなようなものの積み重ねが。僕は撮影中『許されざる者』という単体ではなく『許されざる者たち』という気がしていました。やっぱり人間色々なところで、ある贖罪を背負わされたりとか、生きて行く上で重い荷物みたいなものは背負わざるを得ないわけで、それをどうやって背負っていくのか、それを背負ってでも生きて行くのか、みたいなことを恐らく否が応でも考えさせる作品になったのだと思いまして、それはなんだろうと思ったら、この人が持ってる業なんですね。なんかね、この人もどこか背負ってるし、監督も自分の中にスクリーンに叩き付ける何かだと思うんですよ。ほとんどオリジナルと変わらない話で、それぞれのキャストのキャラクターもオリジナルと変わらないですが、それぞれの絵の具を壁にぶつけるようにして描いていくわけですが、それを僕たちと格闘しながら、ぶつけた絵の具を塗りたくって絵を作っていくんですけど、そのエネルギーだったり、エネルギーというと綺麗なんですけど、それはやっぱり業なんですけど、一枚一枚の絵に重なって行くというのが多分この監督の作る映画なんだと僕はすごく実感したんです。そう思わない?」
小池「思います。見どころと言われると言葉で説明するの難しいですよね。李監督っていつもぎりぎりのところで生きてらっしゃるのかなと思うくらい、本当に感じる映画だなと。人ってやっぱり白黒はっきりつけてなんて生きていけないことが日常茶飯事あって、すごく気持ちが動いて、逃げれないというのが目の前に迫ってくるわけで、この許されざる者たちって、生き様がすごくみんな凛として美しいんですよね。女郎チームなんて、あんな汚い格好して、ほとんどお化粧もしてない状態ですけど、すごく目が綺麗だなと思ったんですよ。一生懸命がむしゃらに生きて行く人たちって美しいなと思うんですけど、それを撮ってる監督ってちょっとかっこいいなと思いましたけどね。いつもかっこいいなと別に思わないんですけどね(笑)」
監督「生きるってことを、平たくいうと、希望を持ちたいじゃないですか。大変さを含めて何か人間が生きて行くということを、それを表現するために、入りやすいきれいごとを重ねていくのか、でも片一方で、人ってこんなにも簡単に命が消えたり、こんなにも簡単に暴力をふるってしまったり、何かそういう極端なものが片一方である。目を覆いたいものが片方であるから、その照り返しが見えてくるというか、美しいものがまみれたものの隙間から見えてくるから美しいんだと思うんですけどね」
渡辺「こういう時代物をやるときに、もちろん今のお客様が見て何を感じていただくかは大前提にあるんですけど、社会の中で、例えば女性の扱われ方みたいなものは全然今と違うわけですよ。それこそ本当に喜八が言っていたように、牛や馬と同じように扱われた時代でもあったわけですよ。例えばそれが夫婦間の在り方だったりしても、親子関係だったりしても、今とやっぱり同じようには考えられない気がするわけなんですよ。だけどそれを全部時代のままやれば今のお客様に共感していただけるかと思うとそうじゃなくて、その綱引きみたいなものを我々はしていかないと、夫婦愛だよねとか親子愛だよねていう風に語れない時代や社会のものがあったんだということをやっぱりこの映画の中でも伝えたいと思ったし、だから女郎だったり、実際どうだったかということではなくて、お話としてあるという気がするんですよね」
小池「アイヌの方々の話もこの作品に関わるまで知らなかったので、びっくりしましたし、女性の扱われ方、女性がどう生きて行くのかというのも、かなりヘビーで衝撃的だったので、気持ちが削られて行くというのは、憐れな人たちというだけに写るのは嫌だと思ったんですよね」
渡辺「目線はそっちにあるからね。なんかこう上から見て弱い人たちっていう風に、ある意味この監督は、例えば愛のことにしても女性のことにしても、そういう視点には見ないというか、同じ視点において見るというかな。うちのかみさんもここで同じように試写で見たんですよ。女だったら、何があっても戻る、十兵衛としてね。でも、男は行くのよねって、言うわけさ。だから男と女ってやっぱり違う生き物だっていう。どうしても主人公に共感をしてそれに感情移入をしながら映画を見るという感じがあるじゃないですか。でもこれは感情移入できないよね。この人、何を考えているのか、何を感じているのかわからない。でもわからないんだけど、その孤独とかつらさとか、すべて感情移入するんじゃないんだけど、なんなんだろう、この悲しさはとか、そういうところにいちいち刺さっていくんだよね。そうじゃない?」
監督「それは結局、2時間15分の映画の中に、動機とか理由とかがあると、感情移入しやすいとかわかりやすいという話になってくるんですけど、実はそんなものがなくても届く場合は届くんですよね。そういう意味だと、すごく今の流れには逆らっているかもしれないんですけど」
渡辺「どうしても異論があったり、私聞きたいということがあったら遠慮なく聞いてください。なかなかねえ、映画終わったばかりで質問も浮かばないと思いますが」
小池「(一人手を挙げた人を見て)あ、いらっしゃった」
質問「最後、十兵衛が子供を託して去るシーンが印象的だったんですが、そのシーンはどのように演じたのですか?」
渡辺「なんていうんでしょう。十兵衛って例えば、貧困、子供を食べさせなければいけないということもひとつの要因として宿場への旅を始めたと思うんですけど、僕はそれだけでもないような気がしたんですよ。というのは、やっぱり人を殺していくというのは人として一線を越えることじゃないですか。それを彼はものすごい勢いでやってしまったわけですね。彼は普段背負わなくていいものを背負ってしまったと思うんですよ。アイヌの女性と出会い、そこに営みがあり、子供が生まれて、人間として戻れるかもしれないという、ちょっとそんなときもあったんだけど、やっぱりその背負ったものに、それを捨てきれなかったという気がしたんです。やっぱり旅に出たのも、自分の業みたいなものに引きずられて行った気がしたんですね。あそこに五郎となつめに妻の形見と金を託して行くというのもの、自分の最終目的地にここは行かざるを得ないんだと、復讐の思いも多分あったでしょう。だけど、やっぱり何か違うところで、結局そこに行かざるを得ないんだという思いを抱えながら、でも父親としてやるべきことを託して行く、僕はそんな思いだったんですよね。だから刀をとってもよくわからない顔をしてましたよね(笑)」
監督「すごく矛盾してるんですよね。なんだろうね。こう人を殺めることに関して、そんなの許されることじゃないことは誰だって頭でわかっていることだし、片一方で僕なりのヒロイズムでいうと、彼は無意識の中で行ったり来たりする女郎たちからもしかしたら始まって、あんな感じで誰かがやられて、次この人がやられて、どこまでも飛んで行くその力を自分のところで完全に断ち切るというところもどこか無意識の中にあるというかね。それがヒロイズムといえるのかどうかはわからないんですけど、隠しながらも託してることだったりするんですよね。でもそんな風にはならないなと十兵衛は思うわけですよ。十兵衛がここで全部断ち切ったとしても、必ずどこかで反射してしまう、それだけのことはやってしまってるので、そんな都合良くはいかないなと思いながらも、どこかでそんな思いたいという自分もいたりするわけですね」
渡辺「すごいです。答えがそれぞれで違うという。それで僕はいいと思うんですよ。ある意味」
小池「ラストシーンって最後に撮ったんですか?」
渡辺「アップの奴は一番最後です」
監督「あれは台本になかったんですよね」
司会「監督は何度も撮られるそうですけど、あのシーンは何度も撮られたんですか?」
監督「あれは日が落ちるから」
渡辺「条件かよ(会場笑)」
小池「日の問題がね〜」
渡辺「あー良かった。やっとみなさんがほぐれて来た感じだ(会場笑)」
監督「本当にあの日で終わって、次の日に機材を返却しなきゃいけないという生々しい話も片一方であって。一日くらい機材返却が遅れてもとか・・・ここにプロデューサーはいないですよね?(会場笑) 不思議でした。僕も撮ってて、何か明確な狙いはないんですよ。目のこのくらいのクローズアップを撮りたい。ただそこに何が写るかわからない。そこに撮影2ヶ月半くらいやってて、一番最初にこれやろう、台本を書いたみんな集まったから、その通りのレールで撮影の最後まで行ってないと思うんですよね。いろんなずれ方をして、いろんな深みにはまってとか、そういう行き来がある中で、最後に何か十兵衛の目に何が写ってるのか見たいと思って。こうしてくださいというのは何もなかったと思いますね」
渡辺「もうとにかくレールでただこうひいていく中で歩いているだけだったですね。僕は初めての経験だったのは、3ヶ月、準備も入れれば半年くらい監督といろんな話をしてるわけですけども、役の事ではなくて、僕のある種の人生観だったり死生観みたいなことを話していった全部をまとめてというと綺麗なんですけど、全部そこに集約されてそのカットがあって、俺は今こんなことが残ってるというか、彼らを通して、ファインダーを通して、テイクしている最中、ずっと監督と会話してた感じがするんですよ。喋ってないですよ。ただ歩いてるだけですけど、俺は今こんなことを思い出したとか、今俺はこんなことを感じているとか、釜田十兵衛としてね、話をしている気がした」
監督「僕も確信でやっていたわけじゃないんですけど、あのシーンで、何もなくなったなと。何もなくなったけど、すごくあふれている感じで、すごく矛盾してるんですけど、そんな印象があって、じゃあ終わりましょうって終わったんですね」
渡辺「日も暮れましたしね(笑)」
司会「小池さんご自身はすごく大変な役というか、女性からは"もう飽き飽きだよね。死んだふりをして生きるのは"というセリフが好きなセリフだという人が多いんですけど、演じられていかがでしたか?」
渡辺「そう思ってる人多いのかな」
小池「我慢するからな。女性は。うん、やっぱり楽しかったですよ」
渡辺「おい、そっちかよ!(会場笑)」
小池「お芝居をやらせてもらうという時間も、待ち時間も一緒にいますから、この人たちと一緒に生きているんだというのはありました。普段劇団でお芝居をされてる人だったりとか、このお仕事を中心にやってない方とかもいらっしゃって、そういう人たちと素朴な疑問みたいなものを投げかけられて、私そういうの考えてなかったとか、見過ごしてしまったていうか、役の上でこのシーンなんでこういうことを言ってるんだと思いますていうのをプレハブの中で待ち時間にみんなで喋るんですよ。でもわかっていて当然だろうとか、そこは別になんとなくこういう感じじゃないというのを自分が流してしまって楽してた部分を彼女たちに指摘されて。すごく良い出会いになったんですよ。本当にみんなでひとつひとつのシーンを作っていけてる感じがしましたし、まあ助けられましたよ」
監督「少し補足すると、小池さんと忽那さん以外は北海道で劇団を芝居をされてて、みなさんは映画は初めてで、北海道でオーディションをして選んだ人たちですね。だから最初は焦ったんじゃないですか?」
小池「焦りましたよ。リハーサルみたので、皆さん北海道から来られて、エチュードとかもやらせていただいたんですけど、"小池さんだけ違うね"っていう風に監督に言われて、この仕事をして多分いろんなことに染まってって、勝手に自分を防御するために作っていった小池栄子ていう役者にない、彼女たちが持ってるパワーていう、もっと純粋にこの女郎の役を捉えている4人と私の大きな違いていうのが、リハーサルで話したときに、すごくやばいと感じましたよ」
質問「後半、石を投げ込まれるシーンがありますが、小池さんのアップのカットがありましたが、あそこの目で何を思ってるのかがすごく気になって、それまでは私は女郎の方々の気持ちに共感できていたんですけど、あの表情だけが怒りなのか後悔なのか、混ざっているのか、何なのでしょうか?」
小池「私が演じているときに感じていたのは、すごくびびっちゃったみたいなのが強かったんですよね。どうしようていう軽いパニック状態に陥って、でも自分が始めたことでも、いろんな人たちを巻き込んでいろんなことが起こり始めてるんだけども、自分はもっとそういうことに向きあえる強い人間だと思っていたが、実際やっぱり人がなくなって、彼女たちの気持ちの中でバラバラになりはじめているなかで、私はどう向き合ってどう責任を取ればいいんだろうというのはあのとき演じているときはすごい感じていたことでしたね」
渡辺「なにかこう、ものすごい強い意志で始めたことなのに、あの時点でみんな目的を失っている感じがするのは、事件ってこうやって広がって行ったり、不可抗力みたいなことにつながっていったりするんだなって、あれはとても不思議なシーンでしたよね。撮影は知らなかったんで、本で書いてあったときよりも逆に映像は濃厚に語るわけじゃないじゃないですか。あの雰囲気だったりとか、みんなの表情だったりとかするんで。卯之助殺しの後ですよね。一番死ななくていい奴が死んじゃった後だから余計になんかね。あれ、どうしたらいいんだろうって、目的をなんか失っていく感じ」
小池「孤独でしたよね。また皆すごい顔で見るんですよね。自分から気持ちが離れていったなていう、共に歩んでたものが、消えてなくなっちゃう、バラバラになっちゃうていう表情で皆さんが見られるので、怖かったですね。なんかリーダーとして信頼されてると思っていたのは私だけだったんだっていう」
質問「『悪人』を見て思ったんですが、音楽にもストーリー性があると思いまして、今回も感情を揺さぶられる、音楽で涙がもう一度出てくる感覚があるんですけど。音楽にも粘る監督だと聞いてましたので、ものすごいこだわりがあるのでしょうか?」
監督「音楽もね、3回くらいやり直したんですよね。何曲か作り直してもらってるんですよ」
渡辺「岩代さんが言ってたよ。やっぱりいろんな編集バージョンがあったりとか、難しい作品だから色々試したんですよ。その中で、音楽に関しては、はまらなかったとかもあったと思うんですけど、基本ラインというのかな、ここに入れてこうやってこうこうというのは一貫して変わらない。そういう監督は初めてだとおっしゃってました。ある一貫性というのは揺るがないというかね。だよね? 違う?」
監督「変わってないと言われたら確かにここって場所から大きく変わってないですから。映画そのものはそんなに説明が多くないんですよね。芝居とかセリフとかですべてを語ってしまうのは嫌いなんですよね。説明がなくても、多分見てる人の経験の中で、それはAという経験をしている人にとっては、このシーンを見たらすごくCになってたり、違うBの経験をしている人にとってはFになったり、それぞれの人の経験によって映画というのは生まれ変わって行くというか、そういうのはどこかに残したいんですよ。でも残したいのと同時に、この感情はきっちり線として太く作り手の方でひいておかないといけないというのもあって、それを明確に音楽ってしてくれるんですよね」
渡辺「音楽って音叉みたいなもんだね。これ自体では音はならないんですけど、お客さんのどこかに触れたときに音が鳴るという。そういうことなのかもしれないですね。ちょっと観念的ですけど」
監督「音楽は比較的シンプルに、感情に近い音楽になるように心がけてはいますね。音楽まで離れていくと見失うじゃないですか。音楽でギリギリどういう風に、自分の経験もふまえて、どういう感情で見て行くかというのも、音楽もそれをひっぱる大事な要素なんで、そこのなりかたが、メロディが違ってくると変わっちゃうんですよね。捉え方だったり、すごく細かい事で変わっちゃって、ほんのちょっとした一音二音とかで変わっちゃうと思うんですよ」
渡辺「ラジオで、たまたま金吾がはじめて訪ねてくるシーンをラジオでやってくれたんですよ。そしたら風の音がすごい音が入ってるんですよね。音だけ聞いてたら風の音が奥ですごいのよ。ゴーって。耳の中では風の音としては聞こえてないんだけど、どこかバイブレーションとして見てる人に入るんですよね。あれは耳だけで聞いたらすごい風の音で、驚きましたね。多分そういういろんなマジックが入ってるんですよ」
監督「地味に色々なことをやってるんですよ(笑)。全部、自然ばっかりじゃないですか。目立つところもあれば、目立たないところも入れてる。ほぼ入れてますね。状況音と言われるものはね」
渡辺「佐之助が待ってる夜に、2人で話をするじゃないですか。あそこで、ウーンって聞こえる。鹿の求愛する声なんですよ。すごい切ない声なんですよ。獣が自分の未来を託したいがために、切なく鳴いてる音みたいなのがね、なんだかわからないけど来るんだよね」
質問「十兵衛の過去があるのに、アイヌの奥さんの過去が描かれてないのはなぜですか?」
監督「見たいと思わせたかったんですかねぇ。なんだろう。今理由を考えてるんだけど。直感的にそれは必要ないと思ったのかな。オリジナルにないというのもあるんですけど」
渡辺「オリジナルって写真と花がありましたよね。写真が妻を想起させるという。僕の受け止め方でいうと、例えば男女の関係だったりとかが今と全然違う。まあ言ってみれば拉致したような形で逃げ延びたわけですよ。それは自分ひとりでは生きられないという、動物的なある種の勘みたいなもので、多分その女性を引きずり込んで飯の世話を迫ったり、でもそこには感情があって、営みがあって子供が生まれた。でも、それは今でいう本当に愛情があって結婚をして子供が生まれたのとは違う気がしたんです。でもその中でもしかしたら違う自分に生まれ変わるかもしれないという、ある種の思いが芽生えるわけじゃないですか。でもそれがまた雪が消えるように無くなってしまう。そうなったとき、彼女の存在みたいなものを、今、我々が人が亡くなったときに感じるような実線として残ってるというよりも、陽炎のようにしか残ってないと思ったんですよ。おそらくその部分も僕がイメージするときに、それが実線としてイメージするのではなく、それが肌触りだったり、陽炎みたいなものを触ってるみたいなものを、僕は感じて演りました。そういう風に映画の中で捉えようとしていたのかどうかは僕はわからないんだけど、だからそのことを多く語ったり、それを懐かしく見るような目線で彼女の存在というのを僕の中で想起しないようにしていたのかもしれない。その辺がとってもこの人は繊細というか、僕はそういう気がしますね。ちょっと僕とは違う?」
小池「監督、この時間に理由を考えてるのかな?(笑) やっぱり輪郭がはっきりしてしまうと、単純にやっぱり想像力としてつまらないかなとちょっと思いますけどね。私も考えてもなかったので、奥さんが映らなかったのは言われてみれば確かに。でも、なくても足りないていうフラストレーションは私はなかったかなと思って、だからすごく新鮮な意見だった」
監督「まあ、あの・・・」
渡辺「あまり考えてないじゃない!(会場笑)」
監督「でもなんだろうな、十兵衛の影の目線で自分がいるとしたときに、当然こういう経緯なんで、オリジナルと違って写真も無ければ、彼の中で物体としては無いわけですよね。あるのは頭の中のイメージか心の中にしかないっていう。だから彼にしか見えないでいいんじゃないかっていう。彼の気になって考えたときに、映画を作る計算とか演出とかは超えて、それを他人が必要とするのかなという。感覚の方になっちゃうね」
渡辺「ものすごいよね。映画作りとしては。ある意味ね」
監督「それをきちっと計算して姿が見えた方がもう少し見る人の心情に訴える、あるいは関心が増すとか、そういうことでもない気がしたんですよね」
渡辺「人の情報って結構入って来ないですよね。例えば、お一人であの宿場町にたまたま居合わせてこの事件を見ちゃったというと、与えられる情報ってものすごい少ないじゃないですか。なんか警察署でものすごい悲鳴が聞こえるとか、お梶やなつめの目線だと、一体何が起きてるのかわからないじゃないですか。だから人の情報って、いろんな情報を伝えすぎて、作り上げすぎてしまうと、そこにあるものでしかない。でも人って結構みんなわからないものがたくさんあって、もしかすると心の中で全然違うものを感じてたりすることってたくさんあるわけじゃないですか。なんかそういうことを信じてるような気はするんですよね。それは多面性ということもあるし、あるいは闇というものもそうだし。その情報を事細かに全部今思ってることとか、バックグラウンドだったりとかを説明しなくても、人ってこうやってこの席に集っちゃうわけですよね。みたいなことなのかもね」
監督「人と人がね、理解しあって、すごく難しいんですけど、極端に言うと一瞬のことで”それわかる”っていうこともあって、それって謎なんですよ。よくわからないんですよ」
渡辺「言ってみればそのことでこんなに喋れちゃう映画です(笑)」
司会「まだまだ尽きないという気がするんですけど、お時間も迫ってまいりましたので」
渡辺「いいですよ。2時間でも3時間でも電車があるうちに帰ればいいんですから(笑)」
司会「最後にメッセージを皆さんからいただければと思います」
監督「メッセージって考えるとダメなんだ(笑)」
小池「そう、メッセージっていうとね(笑)」
監督「今日来ていただいた方でも捉え方は色々だし、まったく1時間くらい話を聞いても腑に落ちないという方もいらっしゃると思うし、もしかしたら明日朝起きて"そういうことか"とか、2年くらい3年くらいかかる人もいるかもしれません。それは人それぞれだと思うんですけど、何かこうこれもひとつの出会いというか、映画ってお買い物に行って時間をつぶすのに映画を見てみようというのでもいいんですけど、出会いってあると思うんですね。映画との出会いというか。人と出会いたいという気持ちと同じで、どこか映画と出会いたいという気持ちも、何かもってくれる人が見てくれるといいなというか、そういう映画と出会いたいという気持ちを持ち続けていただけると、この映画が5年後10年後にもっと近くなってくれるんじゃないかなと。次の映画も見てくれるかもしれない(笑)。まだ全然予定はないんですけど。ちょっとこういう痛いけど切ない映画を見て、お話につきあっていただきまして、今日はどうもありがとうございました」
小池「どうしよっかな。かしこまったの苦手なんですけど。そうですね。話題にされないのが一番悲しいです。無視されるのが一番悲しいので、好きだった、嫌いだった、なんでもいいんですけど、せっかく今日ここに皆さん集まっていただいて、結構長い時間をお話につきあっていただいたのは出会いだと思うので、見てよかったなって絶対に思ってもらえる映画だと思いますし、スルーされるのも嫌だから、誰かしらにこの映画を話題にして話をしていただきたいと思います。”あんなもん見なくてもいいよ”でもいいんですよ(笑)。とりあえずこの映画を見たことが、皆さんに何か印象として出会いとして残ってもらえたのなら、私もこの映画に携われて良かったなと思いますので。本当にありがとうございます」
渡辺「作っているときもそうですし、この映画をどうやってお客様に届けて行こうかと、一ヶ月前から監督キャストとずっと旅をして来たんですけど、いずれにしても、釜田十兵衛もそうですし、映画そのものとずっと僕らはさまよって来たような気がします。よく”映画はお客様が育ててくれるものだ”と言うんですけれども、まさにこの映画はそうで、僕たちは本当にあるスタートラインとしてこの映画をお届けできるような気がするんです。本当にこの映画をお客様が御覧頂いて、感じていただいて、それをお客様の中で育てていただく、そういう映画に本当になったんだなという気が今しています。本当に皆様の中で芽生えたものがありましたら、いろんなところでお話をしていただければと思います。本当にありがとうございました」
『許されざる者』は現在公開中。(構成・澤田英繁)